斜視治療エス

"斜視"を治すために、わたしたちが、できること。

あいさつ。

はじめまして。今日からここで、斜視を治すための記事を書くことにしました。

 

このブログでやりたいことは、

 

斜視だと診断されたあなたが、もしも、臨界期(3歳)のあとだったとしても、普通に"見える"生活を営めるようにするために、できることをできるだけたくさん書くことです。

 

斜視とは、普通とは違う見え方をすることです。

きっと、あなたが言葉にはできていないけれど、生活のなかでたくさんの不具合を抱えていたり、身近にいる誰にも言えない悩みを抱えていたりするのではないでしょうか?

 

そんな人のために、あるいはそんな斜視のお子さんを持った方々のために、僕自身斜視として生きてきて、感じてきたこと・治すためにできることの中で知り得たことを書いていこうと思っています。

 

お医者さんに、手術をしても治らないと言われたり、手術を無理に勧められたりしていても、決してすぐには言うとおりにはしないでください。あなたの人生にとって、あなたの眼が及ぼす影響はとても大きいです。ここの情報も、今のところでは、ボク個人で集め得たこと・試し得たことしか書けていないです。

 

でも、実際に斜視と診断されたあとを生きてきて、いろいろ感じてきて、その上で書いていることです。どうか、まずはじめに参考にしてみてください。

きっと、なにか突破口を見つけるヒントになるのではないかと思います。

それでは、書き始めてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

Dr.Frederick.W.Brockの知恵と業績(3-5)

何年も複視を持つ人を相手に働いてきて、ブロックはこう結論づけた。

「複視、あるいは異常対応は"破壊"する必要はない」、と。

もし複視を持つ患者の眼を普通の両眼姿勢の位置に移動させたとしたら視覚世界を普通の両眼視で解釈できるようになり、結果としてそれが続くだろう。(*1)

彼は外斜視で複視を持っているある一人の女性について語っている。

その女性がブロックのもとに来たのはメガネが必要だらで、外斜視を治療してほしいわけではなかった。

しかし、ブロックは彼女の視覚に興味を覚え、BSM(*2)のテストをいくつかやってみるよう頼んだ。彼は2つの小さな物体を用意した。

それぞれは小さい枠に包まれた文字でできている。

それは両面に移し、片方の文字を右目の光軸の線上に、もう片方を左目の線上においた。

それからうさぎの絵と、その周りを取り囲んでいる赤と緑の立体輪のペアを画面に移した。

赤と緑のレンズをつけている間、その助成は文字の方に眼を向けていた。

複視の人に予想されるように、彼女は1つの輪の半分は赤で半分は緑だと報告した。


 (*1) だから手術で無理に矯正しないで、姿勢を患者自信が治すように定着させていこう、という方針をとったということでしょう。

(*2)Brock Stereo Motivator ...ブロックが使った立体像を患者に見せるための装置のこと。

 

ここ訳すのが難しくて、意味を取り切れていないです。 自分が斜視だからか、位置関係が出てくると途端にわけがわからなくなってしまいます。

 

精読について

ずっと、読書は早く読めることが善だと思っていた。

たくさん読める人こそが読書家と呼ぶに値するし、古典とか有名な本をたくさん読んでいる人が読書家としての評価に値する人なのだと思っていた。

だから、速読の勉強をしようとしてみたこともある。結局上手くいかなかったけど、それはいいことだったと思う。それに触れてみたことで、速読という方法の根底にある考え方は、「早く読めることが善だ」ということだと知れたからだ。

でも、そう思っている限りは本から何も学べはしないのだということを、今日知った。

 

精読、という言葉を知ってはいたけど、本当にそれを初めてできたのは、今日だった。

本を一ページ一ページ、一行一行丁寧に読んで、言葉をノートに書き写したりして、この人はいったい何いってんねんやろ?と考えながら本の文字を一文字一文字消化していくように読み進めていくこと。時には朗読してみたりすること。時間を気にしないで読むこと。

そんな読み方が今日初めてできた。

そして、それが"精読"なのだと、直感した。本から何かを学ぶためには 精読することが一番大事だということを、やってみて初めて身体で"実感"できた。その体験はすごいという表現だと陳腐だけど、何か特別なものだった。誰かが考えたことが自分のアタマの中に入ってきて、それが全身に伝わるイメージ。

今までも、ゆっくり本を読んでみたり、声に出して読んでみたりすることはあった。でも、この本を、この人を、本当に理解したい、と思って読んだ本とは出会っていなかった。

興味の域・関心の域を出ないまま読んでいたから、自分を変えようとして本を読んではいなかったから、精読ができなかったのだなと思った。

 

今日、初めて精読ができたのは、自分にとって"運命"の一冊、本当に読みたいと思える一冊と出会えたこと、そしてその本の内容を学ぶことで自分を変えようと素直に思えたこと、著者の人にリスペクトを持ちながら、(でも批判意識は保ちつつ、)読む、という基本姿勢がやっと身についたからなのだと思う。

 

乱読して、本当に自分が読みたい本に出会うこと、そしてから精読が初めてできる。

これが正しい順序なのではないかな。教師やらご老人方はやたらと古典の読書をすすめるけど、こういう順番がある、ってことを正しく認識して欲しい、と思った。精読ができれば、「本は人なり」っていう言葉を理解できて本を本当に好きになっていけると思う。一冊じっくり付き合いたい本に出会えれば、きっと読書が好きになってしまう。僕がそうなりつつあるように。

本当は、 精読したいなと思える本に出会うための乱読・速読なのだと思った。

そうして運命の一冊に出会えてから精読することはとても、とても幸せなことなのだと今の僕は思う。 そして、またそういう本に出会えることを期待してこれからも本を読み続けたい。

 

 

Dr.Frederick.W.Brockの知恵と業績(3-4)

患者は、普通の両眼視をするためには融像努力をしなければならない。

したがって、眼を回転させることで埋め合わせるという消極的な妥協(手術やプリズムでの補正も含む)では、日常的な立体視は得られないのだ。

また、両眼視するよう人を訓練させるときには、その人の目が斜視の姿勢をとっている場合が最も成功する可能性が低い。

だから、患者の斜視の眼のある特定の角度のときに複視として像が現れるなら、まだ融像努力の特訓を試みるべきではないのである。

両眼視は常に適切な両眼姿勢と結びついてるものなのだ。(続く)


 

Dr.Frederick.W.Brockの知恵と業績(3-3)

ブロック博士は初めて斜視の患者と会うときは"攻撃する場所"、つまりその人が両眼姿勢になる空間の距離幅を探すのに多くの時間を費やした。ひとたびこれが見つかると、患者はこの空間のほんの外側でも両眼姿勢が取れるよう課題を与えられた。

こうした課題は患者が斜視的姿勢を保つ場合はやりとげることができない。

その姿勢を保つ代わりに、その人自身が本当に努力して自分の目を両眼姿勢のところに動かさなければならない。そのようなときにだけ、患者は思考に変化を起こし、新しい視覚解釈にたどりつくのである。

ブロックはほとんどの患者に対して、その人が腕の届く範囲内の距離で両眼姿勢ができるようになると、患者が両眼視できる範囲を一般的に拡大させていった。

彼らには画面に、立体視するターゲットを投影させたものを与え、目標をどんどん遠くへ位置づけていった。

この装置を彼は"ブロック立体視促進機"(BSM)と読んだ。

まとめると、ブロックはトレーニングの初めに正しい両眼姿勢を得ようと試み、それからその姿勢がほとんど全ての状況下で自動的になるまでこの能力を強めたのである。

(続く)


 

Dr.Frederick.W.Brockの知恵と業績(3-2)

同じことがブロックの見てきた患者の多くにも当てはまる。

"ほとんど全ての斜視を持つ人々は偶然同時視をするときがある。

この事実が一般に知られていない理由は、ただ、私達のほとんどが斜視になるという厄介事を、この事実を発見するために抱え込む、ということは決してしないからだ。"

と、ブロックは述べている。

多くの患者、特に外斜視の人が、両眼視できる姿勢を取るのだが、そうなるのは姿勢を取る努力が、あるタスクを成功させるのに必要となったときだけである。

ブロックが彼の"生物の法則"で議論しているように、私達にはできるだけ最小のエネルギーを使ってある行動を達成しようとする傾向がある。外斜視を持つ人が、両眼視の姿勢を取る努力をすることなく目標を達成できるなら、彼は両眼視をする努力をしないのだ。

したがって、ビジョンセラピーは、患者が自動的にずっと両眼姿勢を保つことができるように設計されなければならない。(続く)


 

Dr.Frederick.W.Brockの知恵と業績(3-1)

「協調して動こうとする自然の傾向が人にはあり、そしてそれは最小のエネルギーで達成される。」

ブロックは、自分の眼の状態(*1)を、”網膜のちょっとした間違い”、つまり適切な斜視として述べた。この状態の時、2つの中心窩はもはや整列しておらず、立体知覚は弱まっているが、周辺視野での融像はまだ可能である。

ブロックは複視を自覚していることが両眼視の再確立につながる、とは信じなかった。実際、彼は信号の複視体験は快いものだったと書いている。

しかし、運転中により正確な空間位置を必要とするときは彼の眼は両眼視の姿勢に移行した。


 (*1)ブロックは信号を見ているときに斜視になっていました。