斜視治療エス

"斜視"を治すために、わたしたちが、できること。

Dr.Frederick.W.Brockの知恵と業績(1-2)

2006年に、私の立体視の物語、「立体視のスー」(*1)が初めてオリバー・サックス博士によって書かれ、ニューヨーカーで発表された。

その公表から1週間後のこと、私へのインタビューがあるラジオ番組、NPR(*2)の朝の回で放送された。多くの手紙、メールがその番組への反響として寄せられたが、その中の一つの手紙が、ルッジェーロ博士(*3)へ向けたBruce Alvarez(以下ブルース)という男からのものだった。彼はこう書いていた。

「嬉しいです。ブロックストリングについてラジオで聞けて。こんなことを書くのも、私の妻の祖父がフレデリックブロックだからなんです。」

私は彼に連絡を取り、彼を通じて、ブロック博士の娘、Dee Brock Partrige(以下パートリッジ)と電話で話した。彼女から私は、ブロック博士について色々学んだ。

1899年にスイスで生まれ、1921年にアメリカへ来て、コロンビア検眼校に入学したこと。彼が子供を愛し、人々の視覚の手助けをすることに愛情を持っていたこと。彼が第二次世界大戦への参加を望む若者の視覚を訓練したこと。

また、フランス人教師の息子がビジョンセラピーを必要とすれば、見返りに娘のパートリッジの追加個人レッスンを要求したこと。

電話での会話の終わりに、彼女は、「今より小さな家へ引っ越そうと思っています。父の論文は全部持っているので良かったらあなたに持っていってもらえないでしょうか。」ということを付け加えた。(続く)

 


 

(*1) "Stereo sue" という名前でNew Yorkerに載ったみたいです。

興味があれば、↓のリンクを参考にしてください。

Stereo Sue | The New Yorker

 

(*2)NPRはアメリカのラジオ番組の名前。

(*3)これを書いているスーザン・バリーさんの担当オプトメトリスト(検眼医)です。 フレデリック・W・ブロックのお弟子さんにビジョンセラピーを学んだそうです。

 

Dr.Frederick.W.Brockの知恵と業績(1-1)

 フレデリック・W・ブロック(*1)は他の誰よりも斜視のことを理解していた。しかし、視覚に携わる専門家はほとんどが彼の業績のことを全く耳にしたことがない。

もしその名前を認識しているとするなら、それはおそらくブロックストリングからの連想においてだろう。

 私が初めてブロック博士の名前を聞いたのも、ブロックストリングを介してだった。

私は48歳で、検眼士のビジョンセラピーを受ける患者で、乳児の頃から内斜視を持っていた。私は子供の時に3回手術を受けたが、眼を交代して使っていて、立体視はできなく、周辺視野の感覚は育っていなかった。

 これら全てが変わったのは、私の検眼医であるテレサ・ルッジェーロによるビジョンセラピーを受けてからだった。ブロックストリングや他のビジョンセラピーの持つ力に魅せられて、ブロック博士のことをもっと知りたいと思ったが、彼の著作の多くは得るのが難しかった。。例えば、彼はビジョントレーニングの一連のマニュアルを1940年代から1950年代の"Optometric Weekly"(*2)で発表している。私はマンハッタンのSUNY検眼大学まではるばる渡航し、労力を割いてブロック博士の論文一式をコピーしたのだった。

(続く)


 

*1 Frederick.W.Brockのこと。彼は自分で自分の斜視を手術無しで治してしまいました。

*2 当時でていた雑誌の名前。

 

原文は下のサイトで見れます。

拙い学生の訳文ですので、気になった方は是非、原文をお読みになってください。

http://www.stereosue.com/wp-content/uploads/2011/04/The-Work-and-Wisdom-of-Dr.-Frederick-W.-Brock.pdf